みなとの歴史-History of ports-

「みなと」から発展した近畿の産業

江戸時代の大阪港(大阪城天守閣 蔵) 近畿の「みなと」が歴史に登場するのは一体いつでしょうか?それにはかなり時代を遡ることが必要です。例えば、古代、大阪港は難波津(なにわのつ)と呼ばれ、外国と交流を行っていました。古代から大陸の文化を明日香の都に伝えた遣隋使は、都より竹之内街道、住吉津を経て、難波津から大陸に渡りました。大化の改新により難波遷都が行われると、難波津は国家的なみなととして外交の基地、献納物の中継点・集散地、国家的水上交通のターミナル、警察・軍事の拠点として発展しました。初期の遣唐使船もここから出発していきました。
 また、神戸港は平安時代、すでに「経ヶ島」という36ヘクタールの人工島が築造され、国際貿易の拠点となっていました。8世紀には遣唐使船が往き来し、12世紀には平清盛が大和田泊(おおわだのとまり)で日宋(にっそう)貿易を、15世紀には足利義満が明との貿易を兵庫津(ひょうごのつ)ではじめました。 さらに、応仁の乱(1467年)によって日明(にちみん)貿易が退廃すると、かわって堺泉北港には南蛮船や御朱印(ごしゅいん)船などが往来し、対外貿易の中心となりました。

江戸時代の和歌山下津港(東京大学総合図書館 蔵)

 海運の要衝であった近畿地方の発展は「みなと」とともにあったといっても過言ではないでしょう。江戸時代には大量の日常消費物資を輸送した菱垣廻船(ひがきかいせん)や近畿の酒荷を江戸へと輸送した樽廻船の寄港や、瀬戸内海を介した「西廻り航路」、「北前(きたまえ)航路」が利用されていました。古くから「水の都」として知られてきた大阪では数多くの堀川が開削され、水運を基盤にしたまちの繁栄に大きく役立ちました。また、安治川の開削により、大型廻船の上流への進入が可能になると、みなとの機能も高まり、瀬戸内海と大阪市中を直結するターミナルとして、みなとは「出船千そう、入船千そう」といわれるほど賑わい、大坂(おおざか)は「天下の台所」と呼ばれる繁栄を極めました。そして、明治に入ってからは、わが国の製造品出荷額の約40%をしめるまでになった近畿圏の活力を港が支えてきたのです。

明治時代の堺港(神宮文庫 蔵)  明治20年代の神戸港

戦後の復興と高度成長期

大阪港の戦災復興 第二次世界大戦によって大きな痛手を被った日本経済。近畿も例外ではありませんでしたが、近畿経済の建て直しには、「みなと」の再建が大きな役割を果たしました。例えば、いち早く先進の港湾土木技術を導入した神戸港は、近代港湾としての整備を着々と進め、1967年(昭和42年)にはコンテナ船「ハワイアンプランター」が日本ではじめて摩耶(まや)埠頭に入港するなどアジア有数のハブポートに発展。さらに1981年(昭和56年)のポートアイランドⅠ期、1992年(平成4年)の六甲アイランドの埋立完成により港湾エリアに「生活空間」を創造するなど「みなと」の可能性をさまざまに追求していきました。


ポートアイランドI期完成

 戦前の大阪港は日本一の取扱貨物高を誇る港でしたが、戦時中の酷使と戦災によって壊滅的なダメージを受けたうえ、敗戦後の震災や高潮の被害がこれに拍車をかけました。戦後の1948年(昭和23年)には輸出で全国15%、輸入で3%と落ち込み、横浜港、神戸港に著しく立ち遅れました。戦後すぐ、大阪港修築計画が立てられ、港湾復興が図られました。安治川・尻無川などの河川を拡張して大阪港を「内港化」して都心からの距離を短縮し、大型船舶の係留を可能にしようとするものでした。さらに、河川の浚渫土砂を低地に盛土して高潮対策にあてようとするものでした。1950年(昭和25年)ジェーン台風は大きな高潮災害をもたらし、以後総延長120kmに及ぶ防潮堤がつくられました。1950年(昭和25年)の朝鮮戦争で港は活気づき、貨物取扱量は1960年(昭和35年)には戦前水準を超えました。その後、大阪の工業の地位の低下とともに大阪港の全国の貿易に占める割合は減少しましたが、現在では日常物資を中心に取扱量も増加し、重要な港として発展しています。
 また、明治時代に沿岸航路の定期船寄港地となって栄えた和歌山下津港は、昭和35年、輸入木材の増加に対処して輸入原木の増加に対処して輸入原木の専用荷役から整理・貯木・製材に至る一連の作業ができる木材団地の整備が立案され、昭和42年貯木場木材団地用地が完成しました。これより先、外貿1万トン岸壁の建設に着手し、現在4バースが供用し、公共外貿機能の中心となっています。戦後の引き揚げ港として有名な舞鶴港は、1959年(昭和34年)には商港への大きな転換期を迎え、貿易港に生まれ変わりました。

舞鶴港(1959年)  日本初のフルコンテナ船の入港(1967年)

阪神・淡路大震災の痛手から立ち直って

阪神・淡路大震災の被害 1995年(平成7年)1月17日未明、近畿地方は大きな地震災害に見舞われました。阪神・淡路大震災です。これにより神戸港が受けた打撃は深刻で、岸壁の沈下、ヤードの陥没、倉庫の破壊、さらには神戸大橋等の橋梁やハーバーハイウェイ等の湾岸道路など、港の機能そのものが停止。大阪港、尼崎西宮芦屋港ほか24港も被害が発生しました。
 わが国のコンテナ貨物の約30%を扱っていた神戸港の機能停止は近畿のみならずアジアの経済活動にまで波及、復興までに多大な時間を要するかに思われましたが、復旧に向けた近畿のエネルギーは力強く、わずか2ヶ月後の3月20日には摩耶埠頭においてコンテナ荷役が再開されたのです。


復旧したコンテナバース 以降、4月30日には神戸港埠頭公社のコンテナバースが6バース再開するなど順次、暫定供用開始した後、「打手替え」方式によって本格復旧工事を進め、平成9年3月末には全面復旧しました。港湾施設の復旧には、約2年の月日と5,700億円の費用がかかりました。また、被災した岸壁の修復に伴って撤去した資材の量は約970万トン。使用した鋼材の量は約31.5万トン。使用したコンクリートの重さは約340万トンでした。
 平成17年は震災10年を迎え、安全・安心な社会基盤形成に向け何をすべきかを考え、震災時の緊急対応や復旧・復興に関する経験や教訓を伝え、今後の防災機能強化や、危機管理意識向上に活かす取り組みが、神戸を中心として各地で盛んに行われています。

そして「みなと」がリバイバルする

活況を呈する現在の大阪港  1997年(平成9年)には全面的な復旧を果たした神戸港。近畿の物流経済も漸く震災前のペースを取り戻しました。しかし、20世紀の終わりに日本を揺るがしたバブル経済とその崩壊、それに続く深刻な不況は、近畿にも大きな影響を与えています。長引く不況からいち早く脱し、経済社会を盛り上げるエネルギーとなるために、近畿に必要なものは「港の再生」に他なりません。利便性の高い国際輸送サービスを提供しグローバル経済の進展を図るために、これからも港の役割は大きく、可能性はまさに無限です。

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