
神戸とファッション

(NPO法人 神戸グランドアンカー理事)
藤本 ハルミ 氏
<プロフィール>
オートクチュール マーガレット開店。
日本の伝統素材である西陣織や友禅染の布を使ったドレスの創作をライフワークとする
コウベファッションモデリスト(K・F・M)結成。会長就任。
フランスにおける日本年の催しとして、パリコレクションに参加。
モナコ、ニューヨークにて招待ファッションショー。
神戸新聞文化賞、神戸市産業功労賞、ほか受賞。
昭和のはじめ、船乗りの家に生まれて

音楽は、母が結婚する前にお琴や三味線の長唄をやっていたのを父がいやがって、私はピアノのお稽古をしましたし、なんとなく、バタくさく育ちました。
結局戦争が終わった年は18歳、昭和2年(1927年)生まれです。
終戦後は、20年くらいは自分のお金で外国に行くことは出来ませんでした。留学というのは無理でした。私たちは戦争中、足長おじさんですとか向こうの本を読んでいて、アメリカの留学生活にあこがれたりしたのですが、ファッションも好きでしたからパリにも行きたいと思っていました。でも、外国に行くことなど考えられる時代ではありませんでした。
外国に行きたいと思いながら、家庭の事情で私が洋服を作る店をちょうど昭和28年(1953年)くらいに開いて、それからちょうど10年して昭和30年代の終わりにやっと自分のお金で外国に行けるようになったのです。1ドルが360円でしたが。その時代にちょうど糸ヘンがすごいブームでした。問屋さんが舶来の輸入の生地を持ってきたらすぐ注文が取れて、今のようにアパレルという既製品がなかったので、みんな洋服屋さんに生地を持っていってつくってもらうわけです。
神戸の街は30年位前にファッション都市宣言をしましたが、これは工業工場の汚染問題が大きく取り上げられた頃、次の神戸の産業としてファッションが浮上したわけです。開港以来わずか100年とはいえ、神戸のまちは他の日本の都市と比べ貿易商として住みついた外国人とつくりあげてきたまちですから、本物を身近に見ることができる環境があり本物志向のしっかりした知識が身についているので、神戸のおしゃれは日本の中でも抜群でした。戦争前から東京の人が服を注文に来ることもありましたし、東京のデザイナーでも神戸に行けばいい生地があるとか、センスがいいとか、一目も二目もおいていました。

はじめてヨーロッパの土を踏んで

この頃、日本が復興して、すごくマンションが建っていたときで、朝になったらマンションのベランダから布団が干してあるのです。ヨーロッパに行ったら全然そんな景色が見えないのに、どうしてかなぁ、なぜ日本だけ干してあるんだろうか、日本人は趣味が悪いなぁと思っていましたが、ヨーロッパに行って全然湿気がないということで、布団を干す必要がないということを感じました。
それと話に聞くと、カルフォルニアなどの人は1週間くらいYシャツをクリーニングしなくてもいいというわけですね、湿度がないから汚れないと。湿度があるから首に汗が出て、垢がついて汚れると。日本人は毎日Yシャツを洗濯しないとダメですが、向こうでは全然洗濯しなくてもどうでもいいとか。そういう風な気候の差を感じました。
ロンドンでは8月なのにハンモックをつって日向ぼっこをしてるのです。クル病が一番多いといわれている国ですから、やっぱり太陽にあたろうとして皆がその暑い最中に公園に出て日陰にいるのではなくて、日に当たろうと表でてるというのがとても印象に残りました。
日本人と西洋人の違い

やはり日本人が農耕民族で非常に身体の線が優しいし、向こうは騎馬民族や肉食ですから筋骨が隆々として、食べ物とかいろいろなものに因るのですが、体形というのがすごく違うことを感じました。
描きますと日本の人なら首があって背骨はまっすぐですが、向こうの人は背骨が曲がっていてお尻のところで完全に曲線を描いています。そして足があるのです。ここに大きな胸もあり、お尻にも肉があります。日本人は背中に肉がないです。インド人は神戸によくいますからわかると思いますが、背中の肉が盛り上がっています。私たちが外人の服をつくるときは、前後に同じくらいのダーツをつくらないと足りないです。その点日本人はぺっちゃんこです。ほとんどが背中が平らで、平面なんです。だから、日本人は側面美が少なく、こういう体だったら、無理しないで、この線が美しく見えるような形の服にすればいいです。

頭では分かっていたのですが、ヨーロッパに行って、向こうの人の体を実際に見て、これは日本人が例えば舶来のすごいレースなどの布を買っていますが、もし同じ洋服を着ても勝ち目はないなと思ったわけです。それで日本人は着物に帰らないといけないのではないかと思ったのですが、その国の民族衣装というものは真っ暗な中でも母でしたら腰ひもを口に咥えて、バババッと着て帯もキチンと結べる。しかし私たちは似合わない体なのに、子供の頃からベビー服という洋服で育ってしまいました。似合っている、似合っていないということでなくて、日常着ているのが服なので慣れてしまっています。それだったら、どうしたらいいんだろうと、悩みました。
ライフワークの誕生
ちょうどその頃、今はもう亡くなられましたが、華道の家元の小原豊雲先生に「君が初めてヨーロッパに行って、気候風土とか体とか見てダメだと思ったのであったら、もしパリのオペラ座やミラノのスカラ座に、国賓として招待されたなら何を着て行くか考えて発表したらどうか」と教えていただきました。私は、ちょうど明治100年にあたる昭和43年(1968年)に「明治100年を記念して日本の古典をさぐる」と言う名前をつけていただいて、第一回のファッションショーをしました。日本の色々なものを勉強し、日本の着物地や帯地は日本の気候風土に合うようにつくられているな、日本人に合うに違いないと思いました。この日本人に合う素材で服をつくってみようと思ったのが私のライフワークのはじめでした。第一回のショーは好評でした。
当時家の事情がありまして商売をしていまして、母が先になくなったものですから父を送ることを第一に考えていて、父が亡くなった後、大きい目的がなくなったので、初めてヨーロッパ旅行をしました。船乗りの家庭に育ち、その頃の一般家庭の人とは違う育ち方をしたとはいえ、初めてのヨーロッパ旅行で私は衝撃的なカルチャーショックを受け、その後のデザイナー人生に大きな影響を与えました。そして日本民族の着物に代わる現代の衣装をつくるという私のライフワークが誕生したのです。

世界のパリで日本伝統美を今に
30年目に、フランスにおける日本年ということと私の30周年と古希との3つが重なったわけです。その当時、神戸市は毎年全国の学生に呼びかけてコンテストをやり、グランプリを取った人をパリに留学させていたのです。
真珠業界の応援
私何度も東京でショーをしていまして、どうして東京で仕事をやらないんだ、と言われていました。私は真珠業界にバックアップしていただき、東京でショーをするときには田崎真珠、大月真珠、山勝真珠、それから木下さん、高橋パールさん、森さん、金子真珠などはいつも応援してくれていました。東京でやるときにはミキモトさん、東京真珠、三輪さんなど10社くらいがばーっと宝石を貸してくれていたのです。ですから知らない人が「一体、この先生どういう人?こんな真珠業界に応援してもらって。これだけのものつくるのに東京に来ないで神戸にいるなんて、よっぽど神戸で商売が上手くいっているのか、もしくはよっぽど欲のない先生なのですね」と言っていたらしいですが、欲のない先生というのが当たっていますね。今、神戸の16倍の人口がいる東京というのをもうちょっと意識すべきだったなと後悔していまして、最近は何人かいる東京のお客さんのところへ、2ヶ月に3回くらいは行っています。

ファッションの世界といっても今はアパレルがすごい全盛ですよね、大衆が着る服がすごく量産できて、競って服をつくっているわけで、私のように特定の人のために一着ずつつくるなんてことは時代遅れで、私たちがいなくなったら消えていくと思います。でも、不思議なもので量産しているデザイナーたちはそれをずっと続けていると、1点ものをつくりたくなるので、また逆の発想でオートクチュール的な服をつくりたいという若い人たちも多いわけです。
ファション業界の仕掛け
ファッションの仕掛けのようなものを男性は知ってらっしゃらないと思いますので、これをお話ししたいと思います。皆さん、今の女の子のファッションをご覧になって、どういう風にお思いになるか、下着のようなペロペロな服を着ている娘がたくさんいるでしょ、なぜあんな流行がでてきているのか。私から見ると、下着と寝巻き、スポーツウェアで歩いているように見えます。私たちが若かったときは、素材がもっとしっかりとしていました。今の娘みたいに数は持っていませんが、平常は質素な着物を着ていて、もう少しいいものも持っていました。親は服を繕うのが晩の仕事でした。子供の七五三、13の厄、19の厄、そういう時に晴れ着をつくっていた、日本の伝統文化の着物文化には、きちんと長年の風習が残っていたのです。だから、娘が嫁にいくときには七五三のときにつくった晴れ着とか13参りのときの着物とか19のときの着物を、晴れ着として嫁にいくときに持っていったのです。
宮中の晩餐会とまでは言いませんが、気の張るところへ行きますといったら、今の若い子はそこへ行くようなふさわしい服を持っていません。その代わり、普段の服はたくさん持っています。今年これが流行だといっては買って、箪笥が一杯になるたびに貧しい人へ送っていたのですが、それもやらないようになって、どうして消化しているんだと思うほど量は持っています。しかしいい服を持っていません。
昔はピラミッドの頂点のように群を抜いている金持ちがいたわけです。身近にいました。少数の金持ちがいて、下に大衆がいたとすると、大衆は金持ちを見ていました。大人の人は「あそこはたいしたものだ」と言っていました。そういうお金持ちの奥さんは良い衣装で出かけるので、他の女の人がお手本にする機会が割とあったのです。

しかし考えないので、テレビとかコマーシャルとかにみんなやられているだけで「今年は白が流行ります」とかテレビで上手いこといえば、女の子が「今年は白が流行だ」となるのです。白を山ほどと買ったりするわけですが、あれは言葉としてはおかしいわけですよね。それは「今年は何が流行りました」と過去形で言うのが正しいので、これから流行りますといっても進行するかどうか分からないのです。
魔法のようにテレビで黒が流行りますといえば、魔法のように黒が流行るのです。自分も流行りのものを着とかないと、となるのです。島国ですから皆と同じでないと心配で、変わったことをしないのです。流行りものを着ないで個性的に生きるのは難しいことで、特に組織ではそういう仕組みですが、私たちは一匹狼で言いたいことを言って、したいことをしてきましたから、割に個性的に生きてきたと思います。
既製服の会社が、今年はこれを売ろうとすると宣伝にお金をかけて何度も「これが売れる」といいます。そういう話を若い子の大学の講演に行ってすると、はじめてはっと気付きます。「そんなこと思わなかった」と言っています。これからは自分で似合うものを探さないといけません。流行っても流行らなくても自分に似合うものを着ないとダメだと教えると驚いています。でも個性的というのはそういうことで、それがファッショナブルなのです。ファッションというのは流れがありますから、今年シャネルのデザインがよくてシャネルが売れたならば「今年はシャネルがよかった」「今年はどこどこが流行った」となり、過去を見ると「このときはこうだった」とわかります。初めから売ろうとしてやっているのが私からみたら丸見えですが、一般の人はあまり思っていないように思います。
大阪の御堂筋でも東京の銀座でも世界のブランドが店を開いて、自分の本国より立派なものにして商売します。日本人というのは不思議な民族で一点豪華主義というか、ヴィトングループを買い占めたユダヤ人のすごい人は世界の3,4本に入る金持ちです。その彼がフランスのオートクチュールの世界を買い占めて、絶対に世界中の女のファッションで金を儲けてやるとあれこれと配下にしました。30年も40年も前のヴィトンはあのマーク以外のものはなかったですが、その人の配下になってから最近はカラフルに赤もコバルトブルーも黒もいっぱいできました。それはそのユダヤ人が、優秀なカバンのデザイナーを集めてデザインをさせて、毎年新しいものを出したからです。そして日本の女の子はそのマークのついたものなら全部買ってしまいます。普通は10種類くらい持っていたら買いませんが、毎年いいデザインが出たら買うのです。ヴィトンは買う人の4分の1が日本人です。ヴィトンの経営者も初めは偉そうにしていましたが、最近はやはり日本人を大切にしないと売上に関わるので、とてもヴィトンの社長は日本びいきの発言をするらしいです。東京の銀座には素晴らしい店があるので、見るだけでも楽しいです。
