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港 と 私
元外国航路船長 榎本重夫(神戸市東灘区在住)

 
神戸
  40数年に及ぶ船員生活を今振り返り、感慨深いものがある。南極、北極を除く世界のほとんどの海を航海した。

私が船員の道を選んだのは、父の死と、師と仰ぐ大塚昌三氏の存在があったからだ。

当時、学生の身だった私は、外交官か政治家を目指していた。父の死による経済的理由から、大学進学を断念せざるをえなかった。

大塚昌三氏は、第二次世界大戦中、海軍士官の委託学生として京都大学の地球物理の研究者であり、重巡艦「摩耶」の航海長として、超エリートの道を歩まれていたが、敗戦を機にすべての身分をはく奪され、残された道が漁船の乗務員の資格取得のための講師だった。母方の実家が、静岡県で鰹節製造業を営む網元の関係上、大塚昌三の講義を受けるチャンスに恵まれた。

神戸 師の高潔な人格と深い知識に感銘を受け、尊敬の念を抱くと共に、私は、世界の海に思いを馳せ、独学をはじめるようになった。

そして38歳、当時、新興海運会社で世界一の船籍を保有する三光汽船で、初めて船長の任務に就いた。

  タンカー、ケミカル、貨物船と船の種類で寄港地が違い、常に危険が伴う責任の重い仕事ではあったが、25年間、船長の任務を無事故で全う出来たのは、恩師の薫陶の賜物と、感謝の念に堪えない。  

多くの貴重な経験の中で、特にイラン、イラク戦争の最中、27万トンのタンカー船で、砲弾をもくぐり抜けた危険は今も忘れがたい。その反面、アムステルダムからロッテルダムに至る運河沿いの風景は、開港100年の計の機能性と、文化的遺産に裏づけされた、発展の姿だと痛感した。

また、塩野七生氏の大ファンのひとりとして、カエサルの人物の歴史や文化に触れる航海は、とくに思い出深い。鎖国時代「隅田川はテームズ川に通ずる」と、狭義の日本人に世界に目を開かせた学者の言葉があるが、平清盛が都を移し、神戸に開港を夢みた歴史からも、神戸の港は、<世界に通じる質の高い文化の誇り>こそが、21世紀の神戸港の姿であり、まちの大きな発展に継がることを希望し、期待して止まない。
 
川辺 暁美 プロフィール
榎本 重夫 (えのもと しげお)
昭和7年4月25日生
東京都立第6中学校(旧制)
38歳で外国航路の船長に就任し、以来、ケミカル、タンカー、貨物船と、船長暦25年のキャリアを持つ。
「海は世界に。若者達よ、世界を体験し視野を広げよ」がモットー。
 
 
 

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