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みなと文化研究会

神戸と華僑

映像と観光 神戸華僑総会名誉会長
林 同春 氏

<プロフィール>
昭和元年(1925年)中国福建省生まれ。
9歳で来日。
国際港都神戸在住の外国籍市民の代表的存在。
事業家として活動される傍ら、多くのプロジェクトに多大な貢献を果たしている。
「国際功労賞(兵庫県)」「のじぎく賞(兵庫県)」他多数の受賞。
著書に「波乱万丈華僑私史<橋渡る人>」がある。
神戸中華同文学校顧問、神戸中華総商会会長、NPO法人 黄河の緑ネットワーク代表。
 
 

華僑のはじまり

  「水があるところに華僑があり、ヤシの木があるところの下に華僑がある」という言葉をご存じでしょうか。世界の華僑の数は3500万とも4000万ともいわれています。華僑、華人、華裔という3つの言葉が使われます。華僑は今も中国籍の国籍をもった人です。華人というのは他国へ行って、その国の国籍を持った人です。華裔というのは華僑でも華人の子供で2世、3世といった人を表現した言葉です。

華僑の一番多い国は、インドネシアで850万人、次にタイ国は人口の3分の1の三百数十万人、マレーシアに三百数十万人、それから第二の中国といわれるシンガポールで270万人中190万人程度が華僑、シンガポリアンです。

このように華僑、華人が世界へ出ていった理由の第一は、貧困のためです。どうして貧乏になったかというと、百数十年前、日清戦争で中国が負けて、国の年収の3年分の賠償金を日本へ払うことになり、振興民族資本家や国民から税金を取ることが必要になりましたが、国民に返すことは何もできませんでした。このために、イギリスやフランスからさらに借金を重ねて日本に賠償金を払わざるを得ず、この結果、国内の鉱山採掘権や鉄道敷設権などを譲り、更に関税までが、外国人の手におさえられました。外国の力を背景にした軍閥間の戦争は絶え間なく、国は敗れ国民は生活の道を失い家族は散り散りになり、外へ外へと出たのが華僑の歩んできた道です。

神戸における華僑の歴史

 
 明治33年(1900年)の「奴隷解放令」のあと、アフリカの黒人奴隷にかわって、アフリカ、東南アジア、アメリカ大陸、カリブ海諸島にクーリの形で多くの中国人労働者が送り込まれました。神戸の華僑はまだ歴史が浅く、慶応3年(1868年)の神戸港の開港からです。中国は先に長崎と、物資交流を通じて人間交流をした三百数十年の歴史がありました。一方、神戸はまだ百何十年です。神戸港は開港と同時に中国人が外国船と一緒に入り、その頃に長崎に住んでいた中国人、十数人が神戸へ入りました。その十数人のなかには外国人の通訳や使用人、貿易関係というようないろいろな人がいました。その後、さらに多くの人が入ってきました。

長崎から神戸へ来て、神戸で何をしたかといいますと、最初は通訳、そして仲介です。欧米人は上海を通じて中国と交流があったので、その関係が出来ていました。今から130年くらい前ですから、日本人は貿易の経験もありませんでしたし、貿易するような物資を出すことができませんでした。その頃は華僑も自由に貿易ができたので、最初十何人かがその道に入り、それで住み込んだところがいわゆる今でいう海岸通の南京町あたりから海辺に向かったところです。そこで外国人と日本人の仲介をしていました。

そうこうするなか日本人の方から外国にどんなものを出せるか、そして日本人は外国から何を取り寄せたいかがお互いに分かってきて、華僑が中間になって物資の斡旋をしました。当時、日本が外に出すものは海産物が多かったのです。なかでも多かったのは昆布ですが、昆布はこの辺では取れません。北海道周辺で取れました。ですから、北海道の函館には早い時期に港ができました。それは昆布という求められる商品があったためです。華僑は神戸で日本の物資を集めます。ほかに海産物ですと、アワビ。アワビは昔は干して売るという習慣がなかったのですが、このときにアワビを干して外に出すということをしました。これらが華僑が神戸でやった仕事です。

 華僑の居留場所は、日本人と同じ場所の雑居地だけでした。特別協定がなかったので、江戸末期、近辺に外人が特別地区を設けたのですが、中国人にはありませんでした。だから日本人の雑居地の中に入って、商品を集めて、倉庫兼、商品集めの場所にして、住んでいました。それが今の南京町の発祥の地となっています。それが慶応3年(1868年)に始まり、1890年前後になり、その頃、華僑は十数人しかいませんでしたが、年々商業の道をつくって、そして、積み重ねて行ったのが神戸華僑の始まりです。

今日の神戸華僑がどれくらいいるのかといいますと、兵庫県では17000人の中国人、華僑というよりは中国人として登録されている人が17000人です。外国人は12万人くらいと聞いていますが、12万人のうちに17000人の華僑がいます。華僑の中では華人は登録されていません。華人の登録票がないからです。華僑は中国人としての登録票があります。華人、登録票がなかったので日本の中に溶け込んでいったのです。今の姿です。

 現在、華僑の数が減っています。減っているのは日本だけでなくて全世界的にです。しかし華人はどんどんと増えています。それは子孫がその諸外国の国籍を取ったためです。日本は外国人が国籍をとるのは困難な国のようです。大変難しい。ところが東南アジアではできるだけ自分のところに留め置こうとします。東南アジアの多くの国は、華僑に対してはその国の国籍を持たない限りは商売をさせません。もしも、事業をひとつおこすなら、必ずトップはその国の国籍の人間でなければなりません。

地元の人と組んでやれる人はやっています。組めない人はその国の人を社長にしてやっています。それが便利でもあり不便でもあります。生まれた子供が地元の国籍を取るようにして、その地元国籍の人を長にします。
日本の場合は国籍を外国人に渡さないのは、よく言われるように、一国主義で一民族が重要なためです。大和民族という一民族である、だからその民族以外の民族をいれることはできないと、口では言いませんが、明らかにそのように言っているような場面に出会います。取る方も取りづらいし、渡す方も渡しづらい環境があります。

華僑は日本の貿易に関して二度大きな貢献をしました。一度目は先ほど説明したような、特に神戸では慶応3年(1868年)の神戸港の開港と同時に貿易面で暗かったものを明るくしたことでした。二度目は終戦から5、6年間です。昭和20年(1945年)に終戦になり、終戦後日本は5、6年間、外国との交流は許されませんでした。その許されなかった時に、華僑は地縁などを使って海外と交流して、「日本の製品を要りませんか」「外国にはこのようなものがありますが、いりませんか」と貿易に貢献しております。また、日本でできたものを渡され、それを海外輸出しました。華僑の輸出会社が神戸にありますが、それらは何々通産大臣といった人から感謝状や表彰状などをたくさんもらっています。これが神戸華僑のあゆみの一部です。

 南京町は特に日本人相手に始めた商売ではありません。自分の国、外国の人々が求めているものを最初集めていきました。例えば豚肉とか、昔は日本人は豚肉を食べなかったのです。そういうものを集めて売るようになって、それで日本人も段々食べるようになりました。そして、今の南京町になりました。横浜は神戸より一年早い慶応2年(1867年)に開港しています。後ろに東京という大きな市場があるので、神戸の南京町よりはるかに大きいです。神戸の4,5倍あります。

平和の大切さ

  華僑は自分の事業の発展繁栄を何に求めるかといいますと、地域の発展栄華です。地域の発展繁栄がなくては、絶対に自己の発展繁栄もありません。地域を愛し、地域に愛される人間でなければ、発展はありません。いくら美味しいラーメンをつくって、いくら安く売っても買いにきません。そこに「地域の人が簡単に入れる」という地域との交流がないとだめなのです。

 華僑が大切にしているのは「平和」です。平和がなくては生きていけないと思っています。戦時中は日本も中国も、大変な時代でした。戦後、華僑の場合は戦勝国の立場になったので、割合いい扱いを受けることができました。個人的に言いますと、私は大正14年(1925年)に生まれ、昭和10年(1935年)に日本へ来ました。今でいう満9歳、数えで10歳です。私の父親は、私が5歳の昭和5年(1930年)に日本に来ました。中国では非常に貧乏でした。私の村はどんな村かといいますと、半分は農民で、半分は漁民でした。かろうじて生活できるようなところだったので、村の何人かが日本へ出稼ぎに行っていました。日本へ行って15年くらい経った人が、次の人を呼ぶような用意をしてくれていました。地の縁です。土地の縁が大切です。私の父親も長年、京都で呉服をやっていた福益号(ロンシャン)で、3代くらい先代の人に仕えていました。100年あまり前のことです。私の父親は、そこで半年丁稚奉公のようなことをやり、呉服の用語などを覚え、ちょっと出来るようになると先輩格に連れられて行商をしました。呉服を背中にしょって「こんにちは、反物いりませんか」と歩いていました。京都の丹後はよかったようです。父親が見習時代、京都の丹後へ先輩に連れられて行っていました。テリトリーを決めて行商をしていました。昔は呉服の支払いは年2回しかありませんでした。1回はお盆で1回は年末でした。この年2回で支払いを受けるような商売をやっていました。日本人も売りに来て、かつお金を払わなくても買えるという状態で、商売が成り立っていたそうです。ところが丹後から外へ出て行くと、峰山や網野といった場所があって、そこでは、現金で買わないといけないとなっていたので、掛売りでものを買っていました。

父親が昭和5年(1930年)に来て、5年ほど働いて、ようやく子供と妻を養えるということで私と母親を呼び寄せて、京都の丹後に住みました。そうして、京都の丹後の下宇川小学校という小さな小学校に入りました。父親が呉服で生計を立てて、暮らしていましたところ、昭和12年(1937年)に中国と日本の間で戦争になりました。それが7月7日で、そのときはそのうちに収まるだろうと思いながらも、なかなか収まらず、父親は妻子を連れて国に帰ろうとしました。国に帰るには売掛を精算して帰らなくてはいけないので、すぐには帰れない。売掛を精算するために8月のお盆まで待ちました。8月のお盆になりまして、売った家をまわったところ、敵国人にはお金を払いたくないとなって、払ってもらえませんでした。払ってもらえなかったのでもう少し待とうかということになり、正月まで待ちました。正月まで待っても戦争は激しくなる一方で、ますますお金の支払いをしてもらえる状態ではありませんでした。その村から兵隊に行ったとか、その村の人が戦争で亡くなったということもあり、「殺した人が悪いのだ」となり、村の人たちは中国人に腹を立てていました。

それから12月末になりまして、サーベルをもった巡査が家に入ってきて、ここにそのまま住ますわけにはいかないので、1カ月以内に出て行けといわれました。後に聞いたことですが、その理由は何かというと、舞鶴の軍港の側に住まわすことができないとのことでした。「戦争中なので、出て行け」といわれても、父が出て行けるところは1カ所くらいしかなく、岡山県の津山に行きました。昭和13年(1938年)の春です。私はそのときには既に12歳でした。私は津山に昭和12年(1937年)から昭和21年(1946年)までいました。津山での戦時中は、中国人ということでいろいろつらい思いもしました。誰がいいとか悪いとかではなくて、当時はやはり敵国なので仕方ないと思っていましたが、あまりのつらさに親子で抱き合って泣いたこともあります。

今の苦難はこの戦争の時と比べるとそれほど大きな苦難ではありません。戦争に行って、敵を殺すか殺されるかといった場面に立たされた人が一番の苦難者ではないかと思っています。ですから、こういった戦争を広め、戦争をしたことが果たしてよかったか、悪かったか、これをほかならぬ私たち一人一人が真剣に考える必要があるのではないかと思います。私は華僑で、平和を愛しています。今、日本にいる華僑の人数は戦前よりも増えました。私たち家族が戦争で引き上げていたら、こうしてみなさんにお会いすることは出来なかったでしょう。日本にいたおかげでみなさんに会えました。幸いに今日このようにやっています。

戦後の神戸

  私が神戸に来たのは昭和21年(1946年)です。ちょうど50年ちょっと神戸にいます。神戸というまちは私たち華僑にとって住みよいまちです。北はみどりの六甲があり、南には青い海があります。昔は浜辺があって、とてもよかったと聞いています。華僑が他のまちと比べて神戸で安楽に生きていけたのは、ひとつには神戸港の発展に華僑が何がしかの貢献をさせていただいたということ、そしてもうひとつは、神戸の住民は比較的地元で育った人よりも、やはり外から流れ込んできた日本人が多かったからだと思います。隣の岡山県、広島県、四国、九州などです。外から入ってきた人間同志の和が、どことなしに生まれてきました。

私は父親が呉服屋をしていたこともあり呉服の商売をやろうとしていましたが、津山では商売ができなかったので、神戸に昭和21年(1946年)神戸に来てから、三宮の高架下で商売を始めました。東は阪急あたりから西は元町までの間に、多くの人が出店していました。昭和22〜3年頃は高架下しかなかったので、そこからバラックで住む人が出てきました。屋根のあるところはそこしかなかったので、台を借りて、2列にして台の上に物を置いて、昼は売り、夜はそのものを箱に入れて帰るということをしていました。

 そのときの商売といえばなんでもありました。悪くいえば、闇市といった感じでした。闇の商売を自由というか大目に認めていたのが当時の神戸市長、中井一夫さんという方でした。神戸では、取り締まりがゆるかったのです。普通なら徹底的に取り締まるのが、官僚の役目でしたが、彼はそれよりも見てみない振りをしたことにより、神戸の高架下を発展させました。神戸市民の本当の経済の流通の場にしました。

阪急三宮駅の東口から生田筋までの高架下は繊維関係でした。でも新しい繊維はないので、古着を持ってきて売っていました。生田筋から元町までの間は食べ物屋が多かったです。高架には屋根があるのですが、外に出るとすべて焼け野原となっていました。震災であっても、崩れた材木が積んであったりしましたが、あたり一面焼け野原だと材木もないわけです。焼け野原の中で神戸市民が立ち上がりました。

一番よく神戸に売りに来ていたのは、福井県の人絹の工場です。焼けた工場もありましたが、焼けなかった工場の機械で織ったものを神戸に持ってきていました。この時代は何もなかったので、何でも売って、仲介的な流通をしていたのが、高架下に店を出していた人々です。朝早く、5時前後の汽車で来ます。仕入れも朝早くから駅で待っていないといけません。この人がそうだな、となると取り合いになります。人絹であろうと何であろうと、繊維は闇物といえます。偉い人に見つからないようにいろんな工夫をして、高架下は商売を発展させました。大阪では鶴橋がそういうところです。鶴橋は繊維より食べ物で有名ですが、繊維類は神戸の方が上でした。また、県の行政官はそう多くいませんでしたが、警察官はたくさにました。これが戦後の神戸のあゆみです。

華僑の教え

 
 華僑として神戸で自慢できるものは華僑の学校があることです。今は六百数十人いますが、終戦後は1100人もいました。1100人になったのは何故かというと、終戦と共に台湾の方の国籍が中国籍に戻されたからです。日本国籍だったのが中国籍になったので、そのために中国語がわからなくてはいけないということになりました。中華同文学校は明治32年(1899年)からですので、105年の歴史を積んできました。105年という長い歴史もつ学校は、神戸市内では他にはありません。

華僑は中華同文学校を誇りにしています。民族教育というのはどういうものなのか、自分達はどのような民族であるかを教えます。人からさげすまれないことをしなくてはいけない、また人をさげすんではいけないのです。この精神を徹底して教えています。人を低く見れば、自分も同じく低く見られる、すべて公平になるのです。公平に歩くためには道がいります。それをどうやって見つけるのか、それは、自ら探さないといけません。隣、近所それぞれの人々がこの道をつくろうという精神を見せなくてはいけません。また、中華同文学校がここまで維持できたのは、華僑の精神に「有金出金有力出力」(金を持っているものは金を出す、能力あるものはそれを出す)という言葉があります。この8文字こそすべてものを解決できる道のひとつです。いいことをしたら「○○さんが××をした」となり、悪いことをしたら「中国人が××をした」となるのです。

「あなたがたの頭の中に常に自分が中国人であることを忘れずに生きなさい。もし何か悪いことをした場合、華僑全体の不名誉となるのです」これが民族教育の一番大きな精神です。だから華僑は助け合いの精神を大切にします。助け合うことでみんなの力を強くしていきます。万一、誰か一人がこぼれ落ちても、みんなで助け合います。これが華僑の伝統精神です。社会奉仕することで、みんなから社会的に評価されます。国際奉仕であれ、社会奉仕であれ、奉仕をするのです。

50年間神戸に暮らして

 
 神戸には明治32年(1899年)の中華同文学校、明治40年(1907年)ドイツ学校も、大正2年(1913年)にはカナディアンという3つの学校ができました。これら3つの学校が歴史のある学校です。新しくできた学校は終戦後にできた、マリスト、ミカエル、朝鮮学校です。一番多いのは朝鮮学校です。学校母体は7つあります。この学校の経営はそれぞれの在日父兄が支援していかなくてはいけません。日本の税制度は外国人であろうが、ここで住み、ここで得た利益に対しては、平等に税金を掛けます。誰もが同じように税金を払う義務があります。しかしここで生まれて、ここで育った人間が同じような権利をもつことはできないのです。日本国籍以外の人は駄目なのです。だから日本籍を取った人と、日本籍を取っていない人との間に差別があります。

神戸に外国人が多数住んでいることは、神戸の国際化と文化の多元化に役立っており、市民の生活の内実を豊かにしています。神戸の外国人学校は他府県に比べれば、自治体からの補助もまずまずですが、国からの補助は全くありません。外国人学校の公的補助は、もっと必要ではないかと思います。同時に外国人学校を卒業した者の、日本の大学への入学資格なども、もっと改良されるべきだと考えます。21世紀は世界共生の世紀でなくてはなりません。

神戸と暮らして50数年、神戸市民と接して、いい場面もよくない場面も見せていただきましたが、自分としてはいい場面が多かったように思います。もし日本人が私たち華僑を冷たい目で見ていたら、このような場所にも立たせてもらえていません。地域を愛する、地域に尽くすというのは華僑の伝統的な精神です。

私のような年になると、自分が歩んできた道について考えはじめます。仕事だけでなく家庭だけでなく、すべての面においてどういう風に歩んで、最終的にどういう風に自分は落ち着いていくか、ということです。私は、2000年になって一つ思いつき、「地球に緑を」中国の黄河高原を緑にする運動をしてきました。3年間何万本かの木を植えました。私一人ではなく、日本の友人の方々と協賛して会員を募ってやりました。日本の募金活動によって毎回現場へ持っていきました。今年も今までに3回木を植えに行きました。今年は神戸市の元市長、笹山さんも行きました。神戸銀行元副頭取の米田さんも行きました。木を植えてきました。植えた木がどれほど役に立つかだけではなく「行った、植えた」ということも大切なのです。成果が出て、六甲山みたいになるまでに20年から30年かかるそうですが、私にはこの成果を見届けなくてはいけないという義務があります。大正14年(1925年)生まれで今80歳ですが、見届けるのが使命と思っています。ですから、あと30年は生きるつもりです。あと30年みなさんも見守ってください。

 
 

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