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みなと文化研究会

瀬戸内海運と兵庫津

神木 哲男 氏 奈良県立大学 学長
神木 哲男 氏

<プロフィール>
社会経済史学会 顧問
ひょうご学研究会 代表幹事
神戸外国人居留地研究会 会長
 
 

はじめに

  私は神戸港湾事務所と同じ、1934年(昭和9年)生まれです。
お話のテーマは、「瀬戸内海運と兵庫津」ということで、1445年(文安2年)、今から550年以上も前の話になります。兵庫の津に入港した船から関銭を徴収した記録である関税帳簿、文安2年(1445年)の「兵庫北関入舩納帳」と名付けられた古い帳簿が今に残っております。その関税帳簿をご紹介しながら、瀬戸内の海運と兵庫津についてお話させていただこうと思います。

東大寺関銭帳簿

 
 東大寺は、兵庫津に関所を設けて入港する船から関銭を徴収する権利を室町幕府から承認されます。兵庫津には、当時二つの関が認められ、北の関は東大寺、南の関は興福寺が管理に当たっていました。残念ながら興福寺が管理する南の関については帳簿類をふくめて史料がほとんど残っておりません。東大寺が徴収した関銭は、まず兵庫の津の修復や維持管理の費用に充てられ、余剰が生じた場合には東大寺の堂塔の建設や修理の費用に充てられる建前になっていました。

今、その関銭帳簿のうち、1445年、日本の年号では、文安2年の分が残されており、これによって当時の瀬戸内海の海運とみなとの様子が、明らかになります。文安2年(1445年)といいますと、ちょうど室町幕府が日明貿易を開始し(勘合貿易)、わが国に貨幣(銅銭)をはじめ中国の文物がたくさん輸入された時期であり、国内でも農業技術の進歩によって、瀬戸内海地域の山陽・北九州地方では、いち早く二毛作がはじめられ、生産力の増大が顕著にみられた時期でした。

さて、この関銭帳簿の特徴は、まず第一に、1、2月が断片であることを除いて、ほぼ1年分が残されているということです。これは、中世では全く稀有といっていいでしょう。1年分が残されているということは、兵庫の津に運ばれてきた商品の1年間の動きがほぼわかることになります。いいかえますと、季節変動による商品の入津量の変化を把握することができることを意味します。これは、たとえわずか1年間であっても、当時としては大変得難いデータであるといえます。
第二の特徴は、兵庫津に駐在する東大寺のお坊さんが多分記録したと思われますが、その点で記載の内容が大変正確だということです。

具体的に、記載の内容を見てみましょう。兵庫津に入港したそれぞれの船について、(1)兵庫に入津した日付、(2)入津した船の所属港=船籍地、(3)積載商品名、(4)その数量、(5)船頭の名前、(6)荷受け人の名前、(7)関銭額、(8)関銭の納入日、の8項目が記録され、関銭が納入されて事務処理が完了した場合にはそれがわかるようにその欄に一定の印が付けられています。関銭が未納で事務処理が完了していない場合や免税船の場合も、それぞれ別の印が付けられています。そういう意味で、この帳簿は非常に正確だということがわかります。私は、この資料をデータベース化していつでも取り出せるようにして利用しています。

年間200隻が兵庫津に

  まず、積載された商品の種類ですが、全部で64品目あり、米・麦・豆などの穀物類、ナマコ、ワカメ、エビ、鯛・イワシなどの海産物、塩、榑・松・材木などの建築用材、胡麻・藍・鉄などの原料品、紙・スリバチ・ツボ・ムシロなどの手工業製品で、その種類は多岐にわたっています。とくに塩については、のちほどお話をしたいと思いますが、産地によって細かく分類され、それぞれ関銭額も異なり、産地別にその取り扱いが違っていたことは注目していいでしょう。

つぎに入津船数ですが、一年間で1937隻、これは1月、2月は史料が欠落していますので、本来はもう少し多いと思われ、これを加えますと悠に2000隻を超える船が兵庫津に一年間に入港していることになります。

港湾=船籍地は、14カ国106カ所に及んでおり、本州で瀬戸内海に面している諸国と四国がすべて含まれています。最も多くの船籍地があるのは播磨の21カ所で、他の諸国に比べて群を抜いて多く、讃岐・備前がこれに次ぎますが、この3カ国で全船籍地の半数近くを占めることになります。

このように、この関銭帳簿からみる限り、15世紀半ばの兵庫津には年間2000隻を超える船が、瀬戸内海各地から穀物や海産物をはじめ多彩な商品を積載して入港しており、当時の兵庫津が大変にぎわっていた様子がうかがえます。それでは、どんな商品が、どこから、どれだけ兵庫津に運ばれてきたのか、商品輸送の実態についてお話ししたいと思います。ここでは、瀬戸内海の最も重要な商品である米と塩についてご紹介したいと思います。

米の流れ

  まず米についてですが、兵庫津への米の入津量は年間3万石あまりですが、季節による入津量の変動をはっきりと読み取ることができます。3月は4300石、4月にはいって7,700石台を記録し、年間を通じて最高に達します。端境期の7・8月、とくに8月は、極端に落ち込んでわずかに150石が入津したにすぎません。新米の本格的な供給がはじまる10月には2100石、11、12月は6000石前後を記録し、両月合わせて年間総入津量の40%に達しています。このように、年間を通じてみると、米が季節商品としての性格をもっていることがはっきりとわかります。

さて、米についてはもうひとつ、この関銭帳簿から明らかになったことがあります。米には計量された枡の注記が書き込まれているのです。たとえば、「讃岐枡」、「明石枡」とか「はんさう」とか注記されています。「讃岐枡」と注記された米は、主として讃岐地方で生産され、船積みされたものとみることができ、これを手がかりにして米の生産地や積出地を推定することができます。「はんさう」=半双とは左右両側に取っ手がついた容器で、播磨地方では、これを枡の代用として使っていたことがわかっています。したがって、「はんさう」と注記された米は、ほぼ播磨地方から積み出されたものと推定されます。

さて、この二つの枡に注目して、兵庫津への米の入津量をみることにします。二つの枡の月別の入津量に顕著な相違を読み取ることができます。3月の米の入津量は総量で4300石あまりですが、そのうち3000石あまり、70%、4月は総量の実に90%、7000石が「讃岐枡」注記のものです。5月は讃岐枡注記のものは減りますが、6月はふたたび総量の76%に達しています。そして9、10月には兵庫津への入津はほとんど途絶えるといってもいい状態になります。
いっぽう、「はんさう」の方は、8月まで全く入津せず、9月に入って400石あまり、総量の43%、10月は750石あまり、36%を占め、11、12月もかなりの量にのぼっています。

こうして二つの枡の月毎の変化を追っていくと、次のようにいえるでしょう。その年の新穀としてまず兵庫津にもたらされるのは、播磨地方を中心にして生産・集荷された米(半双注記)で、待ちに待ったその年の新米として大いに歓迎されたことでしょう。ついで11、12月の入津ラッシュには各地からの大量の米がもたらされます。3月と4月には、今度は讃岐地方を中心に集荷された米が合わせて1万石入津することになります。5月からは入津量が急減し、端境期の7、8月はほとんど入津がありません。そして9月にはふたたび播磨地方から新米が入津しはじめることになります。

このように、1年のサイクルでみれば、米の入津時期とその地域は決して一様ではなく、米の産地によって入津時期に違いがあることがわかります。15世紀半ばに、すでにこのような地域による生産の違いがはっきりとでていることは、この時期の経済発展の特徴を考える際に重要なポイントになるでしょう。

塩の流れ

  塩については、それぞれ産地名が記載されていることが大きな特徴です。たとえば、淡路の三原で生産された塩は「三原」と記録されています。このような塩の産地名は全部で17記録されています。

産地別の入津量をみましょう。数量で最も多いのは、備後(備後・安芸・伊予を生産地域とする塩の総称)の5万1000石あまりで、群を抜いており、嶋(小豆島)産の1万1000石あまりがこれにつぎます。年間入津量が6000石を超す上位7カ所の生産地(備後・嶋・小嶋・塩飽・三原・方本・詫間)の年間入津総量は約10万石で、全体の90%以上を占めています。これらの生産地をみると、備後・安芸・伊予を生産地とする備後塩をのぞいて他はすべて東瀬戸内海地域、国名でいえば、淡路・備前・讃岐に存在しています。このように、塩に関しては、5万1000石の群を抜いた入津量を記録している西瀬戸内海の備後塩の生産地と、全体で4万9000石を記録している讃岐・備前を中心とした東瀬戸内海の生産地域の、二大製塩地帯に明確に分かれていることがわかります。ちなみに、赤穂の塩は、江戸時代になりますと、塩の代名詞になるくらい有名であり、最上質の塩を意味しますが、15世紀半ばのこの段階では、7月にわずかに35石入津しているだけであることを紹介しておきましょう。

塩について駆け足でお話させていただきましたが、今度はみなとについて、検討してみたいと思います。先程ご紹介いたしましたように、この関銭帳簿には106の港湾=船籍地が記録されています。ここでは代表的な港湾のいくつかを取り上げてお話をすすめましょう。

牛窓は地域拠点総合型廻船

 
 年間総入津船数1937隻のうち、133隻が牛窓船籍の船で、それらの廻船が積んできた商品の種類は27品目に及んでいます。これは全64品目の40%以上を占めていることになり、牛窓船籍の船が、多種類の商品を輸送しているのがわかります。品目別にみると、嶋・小嶋・備後などの塩の積荷が多く、塩は総計で96回、積荷の延べ回数195の半数が塩ということになります。塩についで多いのは、米・豆・小麦などの穀物類で、これらを合わせれば、66回に及んでおり、穀物類も牛窓船籍の船にとって、重要な商品であったといえます。海産物については、回数はそう多くはありませんが、小イワシをはじめエビ・塩鯛・干鯛・イカ・アラメなど豊富な種類を輸送しており、さらに、材木・槫・桧などの建築用材も運んでいます。

つぎに「混載比率」について検討しましょう。「混載比率」とは、1隻の船が何種類の商品を積んでいるかによって分類し、その全廻船数に対する比率を求めたものです。牛窓の場合、1種類の商品のみを積んで入津した船の数は、全133廻船のうち89であり、その比率は66.9%になっています。同じく2種類の商品を混載してきたのは26廻船、19.5%、3種類の混載は15廻船、11.3%、4種類が2,1.5%、不明が1となっています。すなわち、牛窓船籍の廻船の場合、3分の2は、単一の商品を輸送していますが、残りの3分の1は、2種類以上の商品を混載していることがわかります。1種類の場合は、その大部分は塩であって、小豆島産、備後産、小島産など各地の塩を広範囲に集荷して輸送しています。

以上みてきたように、牛窓港所属の船は、塩、穀物類から魚介類、建築用材に及ぶかなり豊富な商品の輸送を担っており、その集荷の範囲も牛窓を中心にしてかなり広範囲に及んでいます。また商品の混載率からみても牛窓廻船の少なくとも3分の1は、単一の商品を産地から兵庫津に直送するのではなく、複数の商品を集荷・混載して輸送しており、この点からすれば、牛窓港に基地をもつ廻船は、地元廻船(兵庫津)をのぞいて、廻船数も最も多く、瀬戸内海のかなり広い範囲をその活動範囲とし、多種類の商品を輸送する「地域拠点総合型廻船」と名付けるのがふさわしいと思われます。なお、このような「地域拠点総合型廻船」としての性格をもつものは、ほかに瀬戸田・尾道などがあります。

宇多津は地域密着型廻船

 
 宇多津は、讃岐国西部に位置するみなとです。宇多津の廻船数は、全部で47で、積載商品数は16品目に及んでいます。最も多く輸送しているのは、詫間塩で、これに備後塩がつづいています。詫間塩は、宇多津に近く、香川県西部に位置する詫間港周辺で生産される塩のことで、年間入津件数36件、数量にして6150石あまりに達しています。宇多津廻船は、そのうち半数の18件、2800石で、45%強を占めています。塩に次いで多いのは、大麦・小麦・豆などの穀物類で、とくに大麦・小麦は回数も多く、この地域が麦の生産に深くかかわっていたことを想定させます。イワシ・干鯛などの海産物もかなりの回数輸送しています。船の混載比率をみても、1種類しか運んでいないのは、21船で、半数に満たず、複数の商品を積み込んでいるものが多いことがわかります。
総じていえば、宇多津廻船は、塩・穀物・海産物など周辺地域の多様な生産物を中央へ輸送する役割を果たしている廻船ということができます。ここでは、「地域密着型廻船」と名付けたいと思います。このような特徴をもった廻船は、連島(倉敷市南西沿岸)、網干(姫路市西部)などがあります。

由良は特定商品専用型廻船

 
 由良は、淡路島の東南部に位置するみなとですが、その廻船数は、116で、兵庫津、牛窓に次いで第3位を占めています。しかし、阿波塩3船、三原塩(淡路三原産)1船、藍1船の5船をのぞいて、残りの111船は、すべて槫を輸送しています。しかもこれらの商品は全船単独で積み込まれ、混載は全くみられません。槫(くれ)は、板の形をした建築用材で、おそらく土佐産か阿波産のものと思われます。このように、由良船籍の船は、わずかの例外はありますが、商品輸送の点からみれば、槫運搬専用船ということができるでしょう。由良廻船のほかに、三原廻船(63船すべて三原産塩の輸送)、弓削廻船(全27船すべて備後塩を輸送)などがあります。これらの廻船をその特徴から「特定商品専用型廻船」と名付けておきたいと思います。

兵庫津は一大集荷基地・海道のターミナル

 
 兵庫船籍の船は、「地下」(じげ)として記載されています。その廻船総数は、296を数え、群を抜いて多いことがわかります。積載商品数も43品目に達し、全64品目の70%弱を占めています。43品目中、回数が最も多いのは米で、86回、4600石弱を運んでいますが、飛び抜けて大きい1船(豆200石と米1400石を積載)をのぞくと、1船あたりの積載量は約37石と少なく、回数に比べて運んだ総量が小さいのがその特徴となっています。

米に次いで回数が多いのは、阿賀産塩(姫路市西部)で34廻船、阿賀は、姫路市東部の東山とともに兵庫津から最も近い製塩地で、地元の船がその運送に高いウェイトを占めていることがうかがえます。廻船数の多い第3位は槫で、回数にして33回輸送しています。槫についで多いのは、三原産塩と備後産塩で、それぞれ28回、26回を占めていますが、ここでも1船あたりの積載量が少ないのが特徴です。

兵庫廻船の混載比率をみておきましょう。兵庫廻船の場合、1種類の商品しか積んでいない船の比率は80%弱、2種類の混載が15%、3種類の混載は6%で、2種類以上の商品を積んでいる船の比率が、牛窓の33%などに比べてもかなり低いことがわかります。このことはまた、兵庫廻船の船の規模と無関係でないことを示しています。全廻船数296のうち、50石積以下の小型船が180,比率にして60%、50〜100石積が54船、18%、100〜200石積が35船、12%、200石積以上が、9船、3%(不明18船)、となっていて、小型船の比率が高いことがわかります。

さいごに

  最後に、兵庫廻船の特徴をまとめておきましょう。まず第一に、積載商品の種類の多さを指摘しなければなりません。第二は、積載商品の多様さとも関連しますが、廻船数が群を抜いて多いことです。第三の特徴は、兵庫廻船の船の規模にみられます。100石以上の中・大型船もみられないわけではありませんが、50石以下の小型船が主流を占めていることです。

兵庫廻船は、大型船で一度に大量の商品を遠距離から輸送するというのではなく、むしろ小型船を中心にして、多様な商品を迅速に輸送するところにその特徴を求めることができると思われます。

いずれにしても、兵庫津が、この時代における瀬戸内海最大の集荷港であり、大消費地としての近畿地方と生産地としての瀬戸内海をむすぶ物流の結節点として、その果たした役割はきわめて大きく、また重要であったことは、この関銭帳簿の分析からも明らかであると思います。近畿地方という大消費地と瀬戸内海の生産地とを結ぶ、いわば「海道のターミナル」としての役割を兵庫のみなとは果たしてきたのではないかと考えております。
 
 

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