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みなと文化研究会

神戸のハイカラ文化

松下衛 NPO法人 神戸グランドアンカー 理事長
村上 和子 氏

<プロフィール>
まちづくりシンクタンク「Mブレーンズ」代表
「現代食文化研究所」主宰
関西国際大学 講師
 
 

はじめに

  今日は神戸でのご勤務の方だけかと思っておりましたが、舞鶴からも和歌山からもご参加下さり感激でございます。舞鶴港では、魚のセリ市を見せていただいたことがあります。
また、和歌山は、講演でもよく行かせていただくところで、特に、日本一の梅の産地の南部川村は、村づくりや梅の文化の発信などのアドバイザーとしても、10余年前からご縁の深いところ。ひと口に近畿といっても、多様な歴史と文化があることを思い知らされます。

私は、平成15年(2003年)の春まで、兵庫県と大阪をエリアにしているサンテレビジョンで勤務していました。入局して担当になったのは、番組制作からで、まず明石や姫路、尼崎市の広報番組、それから神戸市、兵庫県の広報番組と・・・。ディレクター、そしてプロデューサーとしてまちを紹介してまいりました。

私は元来、好奇心が旺盛なタチのようで、あるものをあるがままに紹介するだけでなく、もっと掘り下げて忘れ去られていたものにスポットをあてたり、みんながこれまで気づかなかった視点からアプローチをするのが、私流の番組制作のスタイルでした。どんなものにでも“出会ったご縁”とばかりに、楽しく、のめり込みながら取材活動をするタイプでした。

それだけに番組づくりのなかで出会った方は、いろいろなジャンルのいろいろな方がおられます。また、その出会いが仕事を離れてもプライベートなお付き合いに発展することも多くなり、今では講演やアドバイザー、まちづくりのプロデューサーまで依頼されるようになってしまいました。

そんなわけで昨春、自分の人生は自分でデザインしていきたい。そして、これまでに関わってきた志を同じくする多くの人たちと一緒に人生を歩んでいきたいと思い、30年近く在籍していたテレビの現場を離れ、独立しました。

 思い返せば、最近のように「まちづくり」とあまり言われていない20年近く前から、地域のみなさんと一緒に、各地の地域の魅力発見と情報発信をやってきたように思います。

国土交通省の関係でみれば、歴史街道のひとつに選んでいただいた、「湯の山町」を中心に、金物のまち「三木市」を活性化しようと平成13年度の観光基本構想をまとめさせていただきました。その後、ちょうどタイミングで歴史街道の指定をいただいたので、地元の人たちの大きな励みとなっています。その報告書の中に付けられた私の肩書きは「まちづくりスーパープランナー」となっています。私は素人で、プロではないのですが・・・。そんな風に思ってくださるのはありがたいことですね。
大きく価値観が変わり、時代が変わろうとしている今日にあたっては、プロが時代を変えていくこと以上に、志しある人たちが時代を創り出していかなければと、このほどNPO法人「神戸グランドアンカー」を設立した次第です。国土交通省には随分ご支援をいただき、いいスタートを切ることが出来ました。
2004年(平成16年)の1月20日に認証を受け、案内のリーフレットが出来上がってきました。

神戸開港

  「ハイカラ神戸の歴史と文化」をテーマにお話させていただきます。
神戸の歴史は以外と古く、特にみなとの歴史は5世紀の始め頃までさかのぼります。奈良・京都に近く、早くから朝鮮半島や中国などの交易の窓口として発展してきました。
万葉集にうたわれる「敏馬(みぬめ)の浦」では新羅からの使者に対して、敏馬の泊で神酒を飲んで祓い清める習慣があったそうです。今でいう検疫のようなものであったようです。

 神戸の都市としての発展は、1868年1月1日(慶応3年12月7日)の開港を契機に近代化の第一歩を踏み出します。最初は「兵庫開港」と呼ばれていたのが、「神戸開港」と、兵庫の名から神戸に変わったのは、「兵庫の津」として栄えてきた兵庫の地域の人たちの強い反対があったからだったそうです。

最初はみなとといっても、砂浜みたいなところで、すぐそばの生田川はよく氾濫し、居留地に予定されたところも水びたしの状態に近かったそうです。その川は後に加納宗七さんの力添えで今の新神戸駅の南に流れる新生田川に流れを変え、もとの生田川は埋められ、現在のフラワーロードになっています。神戸のまちづくりの恩人のひとりとなった加納さんの偉業をたたえ、加納町の町名が残っています。そんな生田川の河口の漁村にすぎないようなところに、ブランド名ともいえる「兵庫」の地名をつけないでほしいということになり、神戸港の名前が誕生することになるのです。

神戸という名前の由来は、生田神社のお世話をする44戸の家のある神戸(かんべ)村です。生田神社は、神功皇后の海外遠征にまつわるエピソードとともに、日本のカマボコの発祥の地としても知られています。

神戸がハイカラ文化のあるまちといわれるようになっていったのは、みなとと、そこに外国人たちが暮らした居留地があったことが、大きな要因です。近畿地方整備局のあるこの建物は、ちょうど旧外国人居留地のまん前。ここは明治の開港以来、神戸の中心地として栄えてきたエリアです。居留地は全部で126区画。その中に商館、ホテル、警察、住居など、約200棟の異人館がありました。
ちょうどここの北側に立つ、私どもの事務所が入った日本真珠会館という建物は東町122番地に立っていますが、番地の122の数字は居留地時代の126区画の中のナンバー122の区画番号ということです。

神戸は他の開港4都市(函館、新潟、横浜、長崎)と比べると10年近く開港が遅かったのですが、その分、他の居留地での政策上での不都合の見直しもできたので、神戸だけはあのような失敗はしないようにと、兵庫県の初代知事となった伊藤博文は、居留地の自治にも積極的に関わりました。その美しさは“極東のモデル居留地”と称されるほどだったそうです。

東の境界は市役所前のフラワーロードから、西は昔は小さな川だった鯉川が流れていた元町の表玄関の南北の通りの鯉川筋まで。北の境界は、大丸神戸店の山側にある旧の西国街道、南は海岸までがそのエリアです。開港から居留地に建物ができるまで6カ月かかったそうです。

すでにそれまでに、神戸にやってきた外国人達は住むところがありませんでしたから、居留地から近い、北野町にも住んでいました。

もちろん神戸に、世界に向けてみなとが開かれたということで、やってきたのは、外国人ばかりではありません。日本の各地から自分の新しい人生と暮らしを求めて、多くの人が集まってきました。

特に1870年(明治3年)は全国的に農作物が大凶作になり、新天地をこの地に求めて、日本全国から人が押し寄せてやってきたそうです。

神戸と華僑

 
 また、神戸を語るときに忘れてはならないのが、華僑の人たちの存在です。居留地には日本と条約を結んだ欧米の人たちが住みましたが、条約を結んでいない清国の人たちは、居留地のすぐ側の雑居地と呼ばれるところで暮らし始めました。その一角が今の南京町です。ほんの10数年前までは、あのあたりからトアロードの上近くのエリアで、香港の路地にでも迷い込んでしまったような風景を見ることができていました。

華僑とは「中国籍を持ちながら、故郷を遠く離れ、異国に住む人」のことを指します。神戸は人口比からみても、華僑の人口の多いまちになっています。

神戸の華僑は、開港の頃、長崎から10人余りの清国の人が、ランタンを持ってやってきたのが、そのルーツだといわれています。彼らは兵庫の海幸物やランプを商っていたそうですが、神戸の歴史の夜明けに灯りをともしたことを大変誇りにされています。

そんな彼らが最初に神戸の地場産業ともいえる産業を主導して発展させたのが、マッチ産業です。大正中期には全国生産の80パーセントを神戸マッチが占めるようになりました。マッチはリンやイオウの臭いがするものですから、作られたのは神戸刑務所の中です。下層階級の人たちは、マッチのラベル張りの内職に精を出しました。兵庫県庁の少し浜側に、今もマッチ会館があります。

もう少し、華僑のお話をさせてください。横浜にも長崎にも中華街があります。そんな他のまちの方がおっしゃられることですが、神戸の華僑は、自分達の出身は台湾だとか、大陸だとかいって、啀み合ったりはしないで、とても仲がいいんだそうです。その大きな理由は、マッチで財を成し“マッチ王”といわれた呉錦堂さんが華僑の子供たちの教育のために創立した中華同文学校にあります。どこの出身だとこだわることなく、子供たちが通って来て、幼い時からお互いの家を行き来するようになり、子供を通して親同士も交流するので、友好的なのだということです。本当に、交流と教育の力は偉大です。

「上海テーラー」と親しまれた、華僑の秀でたセンスと技は、神戸ファッションの大きな土台にもなっています。

また、平成7年の阪神淡路大震災の時にも、彼らは大きな元気を神戸っ子たちに与えてくれました。水道もガスも、電気も、ライフラインがすべて断たれてしまった時に、自前の井戸を持っている南京町の人たちは、水に困らなかったのです。井戸の水を汲み、いち早く炊き出しを始め、「みんなで頑張ろう」と温かい食べ物を提供したのです。そのバイタリティーに私たちはどれほど勇気付けられたかしれません。

明治の開港以来、多くの外国人たちが、神戸のまちづくりに関わってきたといえる。今も約150の国と地域の人たち4万5千人がこのまちに一緒に住んでいます。

神戸生まれの芸術家・文化人

  そんな神戸の風土が人や文化を育てていきます。平成16年4月7日で生誕110周年を迎えるお琴の名手、宮城道雄さんも神戸の生まれ。お茶の商館だったブラウン商館のあったところに生誕の碑が残っています。彼の「春の海」は大変有名ですが、全部で360曲近くもの作品を残しています。彼の作品は、和の世界でありながら、日本的な楽曲というより、洋楽の交響曲的な作風だといわれています。やはり、これも幼い頃盲目になった彼に、自然と居留地の中で耳にしていた旋律が影響を与えているのかもしれません。

 また4月3日から、兵庫県立美術館で開催されている、東山魁夷さんも神戸の出身の方ですが、お目にかかったときのエピソードを少しご紹介したいと思います。日本画壇の重鎮ですから、どんな方かしらとドキドキしながらインタビューに臨みましたが、全く威圧感がなく、あ〜、一流の方というのはこうなのだわ。一緒にいるだけで、まるで神様に包まれているような穏やかな居心地。私の質問がしやすいように、さりげなく気配りをしてくださって、温かい思いが波動となって伝わってくるのです。とても印象に残る出会いと仕事でした。東山さんは3歳から18歳まで、神戸の会下山の桜の名所で過ごされたそうですが、東山さんの色づかいや作風も、神戸での感性とハイカラが息づいているといわれています。

淀川長治さんの思い出

  さて、東山魁夷さんで思い出す方といえば、映画の評論家として大活躍された淀川長治さんも神戸の出身です。淀川さんとのご縁が出来たのは、地方博の幕開けといわれた「ポートピア‘81」が神戸で開催されたときのことです。私はちょうど開催を祝う特別番組のディレクターだったのですが、「山が海に行く」といわれ、新しい神戸の歴史の一歩を飾るにふさわしい方ということで、迷わず淀川さんに出演をお願いしました。神戸大好き人間の淀川さんに、ご自身の言葉であふれんばかりの“神戸讃”をしていただきたかったのです。もちろん期待以上に神戸気質や文化をたくみに表現していただき、無事2時間の生放送が終了しました。

お話はここからなんですが、その後、淀川さんを案内して、スタッフと一緒に博覧会場にまいりました。淀川さんはテレビでもご活躍でしたから、誰もが一目みて、淀川さんだとわかってしまうのですね。ですから、顔を合わせると「こんにちは」「淀川さん〜」なんて言葉がかかるんです。「お帰りなさい、ヨドチョーさん」の声が、人垣の向こうから飛んできたりして・・・。淀川さんは本当にニコニコと、どなたにも笑顔をふりまいておられましたね。

なかでも「この前はお世話になりました」とわざわざごあいさつをしにこられた方と親しげにお話をされていたので、後で「昔からのお知り合いですか」とお聞きすると、「いや知らない」っておっしゃるからビックリ。でも「お世話になったとおっしゃったじゃありませんか」と申し上げると、「アンタどなたさん」と聞き返したら、お連れさんも一緒にいるので、相手に恥をかかせてしまう、と天下のヨドチョーさんはおっしゃるのです。
この気配りがスゴイですよね。神戸はミナトまちですから、どこか「来る者拒まず、去る者追わず」の気質があるのでしょう。この交流術はみごとですね。

東山魁夷さんがらみのエピソードをご紹介すると、実はこんなことがあったのです。博覧会場の一角に、開催を記念して神戸ゆかりの画伯・東山魁夷展が開かれていました。淀川さんとまず、その会場から見ていくことになりました。

「すごいですね」「すばらしいですね」「見事ですね」と淀川節が一つ一つの作品毎に語られていくのです。次のコーナーに歩みをすすめたそのとき、30代の男性が「サインをください」といわれ、淀川さんはにこやかにペンを取り出して書こうとされたのですが、手にしたペンは紙の上で止まったまま、動こうともしないのです。何かと思ったら「サインっていうから、東山魁夷って書こうとしてしまった」ということです。
信じられます?いくら東山画伯の絵画が素敵すぎても、サインを求められて、その方の名前を書く方がいらっしゃいますか。ないですよね、私はあの光景を目の当たりにして、何という方なんでしょう。超ホンモノだわ、と思いました。

いつも同じ言葉を3度繰り返し、サヨナラまでそう言ってしまうあの言葉は、彼の台本としてのセリフではなく、心の中から溢れ出す“言の葉“。聞く人の心に伝わってくる感性の解説だったのですね。だからこそ、亡くなられる直前まで、映画解説の第一線で活躍されたのだと思います。とても頭のいい方で、特に映画のことに関しては、どんな記憶も、まるで百科事典のようにお喋りなさっていましたからね。それと、ご自身が神戸っ子であることをとても誇りにしておられました。

よく神戸っ子気質として一般に言われるのは、「陽気でネアカ」、「ハイカラでおっちょこちょい」「新しいものを取捨選択し、眼鏡にかなうものだけを取り入れる」などです。土着の人が少なかったわけですから、珍しいものへのあらゆる好奇心が、カルチャーショックとなって、文化をクロスオーバーをさせ、独自の気質や文化を育んでいったのでしょう。昭和60年代頃まで、全国のアンテナショップは、まず神戸から、といわれていたのも、その選択眼が見込まれていたからでしょう。

大震災を体験して

  大好評を博した「ポートピア‘81」のあとは、昭和60年(1985年)の「ユニバーシアード神戸大会」の開催。これも非常に好評でした。花のイベントなどを重ねながら、平成5年(1993年)には「神戸アーバンリゾートフェアー」の開催。この頃までの神戸は、とても美しく、輝いていました。わがまち自慢をする神戸っ子たちは、まるで一人ひとりが神戸の広告マンのように口ぐちに神戸のPRを自然にしていました。そんなことがまた、神戸のイメージを素敵に出していったのでしょう。「訪れたいまち、住みつづけたいまち」の全国アンケートのいつも上位を占めていました。

 それなのに、神戸が大震災の大被災を受けることになるのです。誰が、私たちが愛してやまないまちに地震が起こると想像していたでしょう。日本では失われた10年とよく言われますが、私たちは、それにプラスして、震災から立ち上がるために一生懸命、ただひたすらに、下を向いて黙々と頑張り続けたこの10年があります。

命の大切さを知り、共に生きることの意義を思い知らされた私たちは、以前と比べ、人間としても骨太になったと思います。日本では、地震の活動期に入り、どこで起きてもおかしくないといわれる今日、先にそのことを経験した私たちは、皆さんには二の舞は踏ませたくないと願っています。

あんな生き地獄を経験したからこそ、見えていなかったものが見えてきたこともたくさんあります。普通なら、自分の家が全壊すると泣けてきました。でも、自分だけでなく、まち全体が同じ目にあっていると、人間って涙一つ出さないですね。避難所で肩寄せ合って、お互いが励ましあえるのです。人が涙を流し始めるのは、そこから人が一人去り、二人去りしていって、自分だけが取り残されてくると寂しさがこみ上げてくるからです。そんなことも知りました。

本当に今となっては、いい経験をしたと思えるようになりました。私たちが一生懸命、立ち上がろう、這い上がろうともがいていたこの10年に、時代は大きく変革のときを迎えていました。もしかして、私たちのこの10年は、これからの新しい21世紀に必要なものは何かを学び取るときでもあったのかもしれません。だから、もう悲しんでなんかいません。これからまた、10年経ったときは、日本のモデル都市といわれるようなまちに早くなっていたいと願っています。

洋菓子の街・神戸

  ここでファッショナブルな神戸の美味しい顔をご紹介しましょう。「洋菓子のまちKOBE」のお話です。私はテレビマンなので取材をして、テーマやネタ切れをしてしまうことがどうしてもあります。そこで、神戸市の広報番組を手がけている頃に、誰もが手をつけていない、なにかいいテーマはないものかと考えあぐねた結果、私たち市民があたりまえのように口にしている神戸の洋菓子が、どこのまちよりも魅力的で、特徴的だということに気がついたのです。それから、私の洋菓子文化の研究が始まるのですが、ケーキ屋でもお菓子教室の先生でもない私が、とうとう「洋菓子天国KOBE」という本まで出版するまでになりました。

それがなんと、ベストセラーになり、出版まもなくして大丸神戸店の店長から、同タイトルの催しがやれないかと依頼までいただき、総合プロデューサーとして取り組みが本格化していきました。

会場には関東大震災で大変な思いの中、横浜から神戸に来られ、神戸を第三の人生の故郷に選んだユーハイムさんのお店が出来たことで、神戸に本格的なドイツ菓子が伝来したことや、ロシア革命を逃れ、無国籍のまま、神戸で手づくりチョコレートの伝統を伝えたバレンタイン・F・モロゾフさんのこと、たまたま第一次世界大戦のとき、ドイツの捕虜収容所に入れられ、のちに日本人と結婚し、NHKの朝ドラ「風見鶏」のモデルになったフロインドリーブさんのことなど、彼らにとっては不幸な出来事が、神戸にとっては、洋菓子のまちの礎になったことを中心に紹介し、神戸の洋菓子の味とエスプリを楽しんでいただきました。

「洋菓子天国KOBE」の出版からわずか4ヵ月後に第一回目を開催していましたが、会場に来られるお客さまの口ぐちから「神戸はそういえば洋菓子のまちだね」と、言ってくださるようになっていました。

また、その頃は洋菓子の世界は完全な男社会でした。今では信じられないことですが、この催しは、販売のスタッフか、下働き程度でしか女性たちの活躍の場がなかった洋菓子界に、女性菓子職人たちを進出させるきっかけにもなりました。

「洋菓子KOBE展」の開催

 
 洋菓子は居留地に住む外国人が、神戸での暮らしに必要として入ってきたもの。明治15年(1882年)にはすでに日本人の手になる洋菓子店が出来ていたそうです。こうしてスタートした「洋菓子KOBE展」は、卒業論文のつもりで4冊目の著書をまとめ15回で総合プロデューサーを下ろしていただきました。その中でも、一番の思い出は震災のときの「洋菓子KOBE展」でした。

大丸さんから電話があり「今年も出来ますか?」と聞かれました。「何をですか?」と聞き返したくらいです。「デパートはつぎはぎだらけで拡張しているので、3分の1スペースが使えるので、そこでやります」とのことでした。そして4月の上旬にやるので、できますか?と。「やるのだったら、私はやります。しかし、いつものGWではなく、グランドオープンという形でやらせてください」と頼みました。
4月の上旬までに日がなくて、店長室に机と電話と置いてもらい、あらゆる手を尽くして、やったのが、震災から80日目の4月8日をオープンで、5日間やりました。例年のように工芸作品がなくても神戸はお菓子のまちとしてわかるように、神戸の銘菓を知らせるだけでいい。結果は15万2千人の方が来られたそうです。大きな工芸作品は「私たちの神戸」をタイトルにしました。

タイトルらしくないタイトルなのですが、当時はなんとかしたいという気持ちだったのです。そのときはシェフの顔写真ではなく、シェフたちのメッセージも展示しました。泣きながら作品をご覧になるお客さまに彼らは、こんなに喜んでもらっているのだという気持ちから早くお返しがしたいと思ったそうです。神戸の洋菓子の歴史に残る感動的なエピソードの一つでした。

神戸発祥のものはたくさんあります。パーマネント、ジャーズ、ゴルフ、ラムネなど、また次の機会に紹介いたします。

NPO法人神戸グランドアンカーの設立

 
 私たちは神戸のみなとの再生をめざして、神戸グランドアンカーという名前のNPO法人を設立しました。函館のように夜景を見せるしかけが神戸にはありません。光都神戸といわれるほどにライトアップの仕方できれいになるのに、演出ができていません。

神戸にはまだまだ輝くものがあるのに、手をつけられていない。まちにグランドデザインがない、演出がない。そして、プロデューサーが不在であると。個人の力だけではあまり実行できないので、それを変えるためにNPOを立ち上げようと思ったのです。

巨大な資本を持った人の施設ではない。小さなものでも次世代の人が自立できるところをつくりたいと思ったのです。私の時代は、20代でも30代でも任せてくれる人がいました。でも今は任せてくれる人がいなくなったので、若い人が育っていない。それを次世代の活躍の拠点にしたいと思い、みなとに100人のクリエーターを全国から集め、そこをアトリエなど活躍の場にして欲しいと思っています。もちろん、商談、展示、販売などの拠点にし、新しい若い世代のクリエーターが育っていくところにしていきたいと思っています。それが、来年に向けてのプロジェクトですが、その前にみなとににぎわいをつくるということで「神戸みなとの絵大賞」という300人規模の写生会とその作品展を5月と6月にひらきます。

私たちのメンバーにはアーティストもたくさんいますので、自分たちの中だけで審査もできるくらいなのですが、公平な審査の元でみなとの絵大賞を決めたいと思っています。第一回の取り組みとして、近畿地方整備局のご支援でスタートがきれることに感謝します。

神戸はネアカです、来るもの拒まず去るもの追わず、です。江戸っ子は3代続かないと江戸っ子といってもらえませんが、神戸は転勤してよそのまちに行っても神戸はがんばっている?とエールを送ってくれて、好きと言ってくれたら、みんな神戸っ子になります。みなとまちの空気がそうしているのかもしれないと思います。
 
 

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